8月はみなさん外へお出かけという方も多く、比較的手すきになる季節です。これを利用して、物置の整理を行っています。古いネガがたくさん出てきました。今はDPEコーナーに持ち込むと僅か350円でCD-Rに焼いてくれます。これを使えばパソコンでいくらでもプリント出来ますし、こうしてネットで公開したりとか、多様な活用が出来ます。撮影した当時では、これっぽっちも想像できなかったことです。
今日ご紹介するのは、昭和50年代前半の奥羽本線・山形の情景です。ごくごくありふれた国鉄の日常風景ですが、当時はカラープリントやカラーフィルムは決して安くありませんでしたから、こうした当たり前の風景というのは殆ど撮っていません。そういう意味でちょっと貴重な画像だと思いますし、国鉄時代を知らない学生さんなどには新鮮に映るかもしれません。
何気なく写しておいたものなので、正確な日付などの記録はありませんが、管理人が中学もしくは高校生の頃に写したものです。山形駅にED75-700の姿がありますから、昭和50年10月の奥羽本線全線電化完成後ということが分かります。そのED75-700も、今では鉄道博物館に展示されているわけで、時の流れを感じます。

山形駅構内で入換中のED78重連です。ED78は全機が福島機関区に配置されて、奥羽本線の福島~山形間と仙山線の旅客・貨物列車で運用されていました。このようなED78同士、あるいはEF71との重連もしばしば見られました。
山形以北はED75-700が客貨とも使用されていましたが、羽越線や奥羽北線の塩害対策から、屋上の高圧機器が車内に取り込まれ、外観的にはさっぱりし過ぎの印象でした。ED78・EF71とED75-700の運用は、山形を境にはっきり分かれていました。JRになった後はED75が米沢まで入るようになっていました。構内にはオハ61や救援車スエ71などが転がっています。主な駅の構内にはこんな感じで客車や貨車がたくさん置いてあるのが常でした。営業用の客車が61系ばっかりなあたりに、奥羽線のサービスレベルが見て取れます。オハフ61の3000番台が写っていますが、これはオハ61を緩急車改造した1000番台を電気暖房にしたものです。海竜のプラ16番のタイプですね。
スエ71のアップです。構内にはこうした怪しい救援車が良く置いてありました。
向こうには貨車がたくさんいます。ED75が入換中のDE10は、番号からして山形機関区のものでしょう。左沢線のC11置き換えで投入された分だったと思います。この当時、左沢線にも通勤時間帯に1往復客車列車が運転されていました。
構内にあった客貨車区の詰所です。いかにもB級幹線らしさがあって、なかなか良い雰囲気です。
山形地区の普通列車は、福島・秋田方面へ直通するものは全て客車でしたが、山形を中心に赤湯・楯岡(現・村山)までの区間列車は気動車で運転されていました。また「あさひ」「月山」と言った支線直通の気動車急行もあって、山形には気動車も多く配置されていました。今は山形新幹線の車庫になっているところが気動車溜りでした。
ここですね。中央に珍しい修学旅行色のキハ58-800が止まっています。ここと郡山、直方にだけあったものですが、普段は一般車と混用されて、左沢線のローカルや急行「おが」で上野にも顔を見せていました。
そんな時代の奥羽線の情景をもう少し。
スイッチバックで有名だった板谷駅です。ジークライト工業という会社の貨物の取り扱いをやっていたので、駅構内には貨車が止まっていました。
今は「高畠」になった糠の目駅です。かつてはここから高畠町の中心まで山形交通の高畠線が走っていましたが、昭和40年代後半に廃止されています。
米沢を出た下り列車は、赤湯を過ぎると小さな峠にかかり、置賜盆地から山形盆地へと入っていきます。向こうからEF71単機の貨物列車がやってきました。設計上は、ED78が本務機でEF71が補機ということになっていましたが、実際には特に区分けされていませんでした。軸重制限のある仙山線はED78限定、というくらいの感じで使用されていました。窓を全開にした真夏の旧型客車の旅です。田んぼを渡ってくる緑の匂いを感じながら行く、夏の列車の旅というのもなくなりましたね。何の変哲もない1シーンですが、管理人の心には深く刻まれています。もういくらお金を出してもかないませんが、もう一度こんな列車で旅をしたいものです。
35年近い時を経て、全てが過去のものになりましたが、改めてこういう情景を見ると、製作意欲が湧き上がってきます。色々出てきたので、準備の出来たものから順次アップしていきたいと思います。
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