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2012年3月23日 (金)

風の便り・・・

 先日のダイヤ改正では、御殿場線の「あさぎり」が御殿場までに短縮、減便、車形変更、東海道線の東京-静岡間の普通列車の廃止などに目が向きましたが、併せて、JR貨物仙台総合鉄道部のED75がついに全機運用から離脱して2休になったという風の便りが届きました。1963年から延べ302両が製造された交流ELの決定版的な存在でしたが、ついに定期運用が消滅し、残るはJR東日本の700番台5両のみになったわけです。

 趣味的な見地からいけば、この機関車は初期の交流機にありがちな、複雑な屋上機器というのが魅力なわけで、700番台はあっさりし過ぎて別形式のようにも見えます。最後まで貨物に残った75らしい形態のものは、M形4両、P形3両の計7両だったようです。一族の最終製造機である1039は、昨年の東日本大震災で、津波を受けて現地で解体されたのは記憶に新しいところです。

 管理人がED75と本格的に出会ったのは、中学生のころ、福島の叔父を訪ねた時のことでした。一人旅が許されたので、時刻表をめくって面白そうな列車がないか探して選んだのが、お昼前に上野を出る一ノ関行きの普通列車でした。列車番号も覚えやすい123でした。その頃は、黒磯までの直流区間はEF57と58の共通運用だったので、58が来ればハズレということになっていました。上野駅の13番線で待っていると、やがて尾久客車区から推進で列車が入ってきます。郵便の積み込みとかもあるので、発車の40分近くも前にです。

 機関車次位に乗るつもりでその付近で待っていると、最後に勇ましいEF57が姿を現しました。しかも一番前の客車は、白熱灯のスハフ32です。初めての本格的な鈍行一人旅でしたが、大当たりのシチュエーションだったのは忘れられません。「青春18きっぷ」など当然なく、時はまさにブルトレやL特急ブーム、こんな列車に歓喜して旅行する中学生なんて異常だったんでしょうね。

 黒磯まで約3時間の直流区間が終わると、停車中に交流ELに付け替えられます。黒磯駅は、全国で唯一の地上切り替え式で、架線の電気を直流と交流に切り替えることができるのです。駅構内を直流機と交流機が行きかうという、模型のような光景が展開されていました。

 さて、問題は交流区間で何が引っ張るのか?でした。当時はED75の他、まだED71も健在でしたが、残念ながらED75でした。近代的な機関車と古い客車の組み合わせもアンバランスで、何か気に入らなかったのですが、いざ発車してみるとその考えは即座に覆されました。窓を開けて見ていると、京成電車の青電も真っ青なくらいの吊り掛けの音が響いてきます。普通列車ですから、その先も各駅毎に。これはハマりましたね。EF57とED75のリレーによる6時間半の旅は、あっという間に過ぎて行きました。

 その後高校、大学と進むにつれて、全国を鈍行で旅行することになるわけですが、殊に北海道については必ず東北地方を通過するわけで、ED75の普通列車には、JR化後に客車列車が消滅するまで、とてもお世話になりました。管理人が一番お世話になった機関車ということができるでしょう。

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 そんなこともあって、脳卒中で入院した後、真っ先に75を製作(←かなり無謀のような気が・・・)したわけですが、今般5年近く走っているので、走行部分のリニューアルを行いました。実体験の中で出会った列車をいかに立体で再現するか?というのが模型のテーマの一つですね。もちろん走行の品質というのもあります。

 今回のテーマの走行品質の向上については、その後の麻痺側の手の機能回復を反映して、今度こそは文句なしのレベルになりました。

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 盛岡から先でよく見かけた、奥中山越えの補機回送を兼ねた重連の普通列車のイメージです。最後尾の郵便車と荷物車は、青函連絡船に積み込まれて北海道へ行くのかな、といったところでしょうか。

 75の事実上の終焉に際して、ほぼ完璧な走りを得ることができました。

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コメント

つのすけさま
 コメント有難うございます。倒れてからそろそろ5年経ちますが、手の方はどうやら8割方復活して来ているようで、あれだけ動かなかった指も個別に動くようになって、感覚も痺れがほぼなくなり、正常に近い感じになってきています。N沢リハビリのOT科の話では、手はやるだけ良くなると言われて、麻痺側の手もどんどん参加させるように、とのことでした。歩くよりも複雑な分手は難しいと言われていますが、歩く方とバランスがとれた形で復活して来ているようです。N沢リハビリの実力なんでしょうね。基本的には、N沢でやったメニューの延長のような形で、歩行と作業を続けています。PTメニューは、電車に乗って問屋を回る、といったところでしょうか。
 リハビリは継続が大事だと言われますが、模型工作なら飽きることもなく続けられますし、これはかなり効果的なリハビリネタですね。麻痺した左手を参加させなければ完成できないわけですし。まだ不満な部分もあるのですが、今なお改善して来ている部分も多いので、まだまだ粘ります。

投稿: さがみ | 2012年3月25日 (日) 19時42分

鈍行列車の旅、懐かしいですね。当時は旧型客車が当たり前のように全国で見られたものでした。
一ノ関行き123列車も懐かしいです。上野駅で特急を撮影していると、忽然と現れてきたものです。直流区間だけですが、乗車したことがあります。35系とかが連結されていたのでしょうけど、あまりに古く感じたのか、唯一連結されていたナハ10に乗り込んだことを覚えています。当時は確かにゴハチはブーイングでしたね。荷物列車でSGの蒸気をもうもうと吹き上げるゴハチを撮影していなかったことが悔やまれます。
片麻痺を体験されてもこれだけの模型を組んで塗装される技量があるということは、倒れられる前に充分な技量の蓄積があった賜物かと思います。それとリハビリの効果ですね。私などは最近はキット組み立ても塗装も技量が及ばないので諦めています。

投稿: つのすけ | 2012年3月25日 (日) 17時46分

つのすけさま
 コメント有難うございます。私がED75を初めて目にしたのは、1968年の夏だったかと思います。やはり父方の祖父の家を訪ねて初めて特急列車に乗りました。キハ80系の「つばさ」で、今思えば板谷峠、直流電化最後の夏でした。峠越えの補機はEF64だったわけですが、それよりも交流区間で印象的だったのは、田の字フィルターのED71でした。最新機関車のED75とかは図鑑などでも紹介されていましたが、ED71はその存在すら知らなかったので、なおさら印象が強かったんだと思います。うちの父は、田舎へ帰るときは、特急でなければいやだと、当時としてはずいぶん贅沢なことを言ってましたから、後継のキハ181「つばさ」はもとより、483・485系「やまばと」などずいぶん乗りました。中学生になって一人旅をするようになった頃は、鈍行と急行が半々くらい、高校生になってからは旅館の宿泊も許されて、列車はほぼ全て鈍行になりました。だんだん列車のグレードが落ちて行ったのですが、当時はまだ東北線など長距離を運行する鈍行も多く、鈍行の乗継で最長だったのは、上野~根室間56時間というものでした。もうこの記録は破られることはないと思いますが、常磐線の平から釧路までが客車列車で、平以北は青森までずっと75でした。仙台で乗り換えた青森行きでは、切符を調べに来た車掌さんが唖然として、そこで検札は終わり、あとは盛岡まで向かいの席に座って、ずっとおしゃべりをしていました。
 その後に発売された「青春18きっぷ」など、今ではアンチョコ本まで出てすっかり鈍行の旅もメジャーになった感がありますが、逆にぎすぎすとした雰囲気になり、客車列車も消えて、乗って行きたいなと思わせる列車も殆どなくなってしまいました。
 店にやってくる学生さんには、このデモ列車は管理人が学生時代に旅行した時に乗ったものを、四半世紀の時を経てついにモノにした、と説明しています。模型趣味の切り口の一つですから。

投稿: さがみ | 2012年3月24日 (土) 22時05分

ED75がいよいよ消えていくのですね。
私が初めてED75を見たのは、1973年、父方の祖父の親戚を訪ねて東北を旅行した際に、青森駅で見たM型でした。あれから40年近く経つのですから、淘汰されるのも仕方ないのかもしれません。
模型ではTOMIXのプラ製品を持っていましたが、足回りを鉄道模型社ED71に譲ってしまいました。TOMIXのED75はオークションでも高値がついてなかなか手が届きません。

投稿: つのすけ | 2012年3月24日 (土) 21時31分

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