【カツミのED75】引き続き屋上の組み立て
引き続き屋上の作業が進行しています。ED75の一般型は、やはり屋上の複雑な配管や機器類が一番目につくところですが、良質なロストパーツが多用されていますので、とても細密な感じになりそうです。今日は排風ダクト関係の残りや汽笛などが付きました。
複雑な屋根らしく、先に付けたパーツの上にさらに別のパーツが付く箇所もたくさんありますから、パーツを取り付けるたびにキサゲをかけないとハンダが削れなくなってしまうところも出てきますから注意します。 また、主変圧器室の屋根に乗るダクトは、大きなロストパーツの屋根にこれまた大きなロストパーツのダクトが載りますから、接合面はあらかじめワイヤーブラシなどでよく磨いてハンダが回りやすいようにしておきます。コtテも容量が小さいとパーツに熱を吸い取られてハンダが流れませんし、うっかりするとコテ先がパーツにくっついてしまいます。100Wのコテが必須になってきます。
そのあたりのパーツが付くと上のような感じになります。長時間停車で停止していたブロワが発車ベルが鳴り始めると再び動き出して、風を噴出す音が、さあ、いよいよ発車するぞ、という雰囲気を醸し出していました。東北本線は大幹線ですから、少なくともED75と旧型客車の時代には無人駅はほとんどなく、従って発車の合図も車掌の無線ではなく、ホームの駅員が機関車にブザーで合図を送っていました。汽笛一声、列車が動き出すと、ホームの放送が「飛び乗りはおやめください」と繰り返していました。到着の時には「列車が良く止まるまでお待ちください」と言っていましたね。
東北線は割合遅くまで旧型客車による普通列車が残っていて、ラッシュ時間などはこのED75が単機で乗客を満載した堂々12両もの客車を牽引したりしていました。貨物列車には後補機がついた福島~金谷川など、長編成の普通列車は40km/h程度のスピードしか出ず、モーターの音を高らかに響かせて懸命に勾配をのぼっていたものです。ドアを開放したデッキまで満員でしたが、毎年必ずといっていいくらい、走行中の列車から転落して死亡する者が出ていました。今だったら国土交通省が何を言い出すかわかりませんが、当時は駅長名で出される手書きの大判ポスターでデッキ乗車をしないようにと言って終わりでした。
郡山を過ぎると一転して車内は閑散として福島を夕方のラッシュに出た列車もこのあたりまで来ると、外はすかり日も暮れて、車内の明かりだけが空しく光っているという風情になりましたが、これが壁がニス塗りで白熱灯照明の車だとしっとりと落ち着いた、なかなか味わいのある空間になったものです。東京に帰る私にしてみれば、あと1時間で客車の旅も終わって、黒磯からは3時間もの長い115系の区間に入るということで、ちょっとさびしい感じのするシチュエーションでもありました。白河をはさんで黒磯までの福島・栃木県境のあのうら寂しい人家のあかりもまばらな車窓がいっそうさびしさを盛り上げていたように思います。
今はほとんどが無人駅になってしまったこの区間も、当時はすべてが有人駅で、駅長のブザー合図で列車が発車していました。列車が動き出すと駅長が直立不動の姿勢で列車が見えなくなるまで送っていたのが強く印象に残っています。
だんだん75らしくなってきて、いろいろなことが思い出されてきます。しかし、今はもう75の旅客列車ない、んですね。模型の工作にはそんな楽しみもあります。
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