先日のダイヤ改正では、御殿場線の「あさぎり」が御殿場までに短縮、減便、車形変更、東海道線の東京-静岡間の普通列車の廃止などに目が向きましたが、併せて、JR貨物仙台総合鉄道部のED75がついに全機運用から離脱して2休になったという風の便りが届きました。1963年から延べ302両が製造された交流ELの決定版的な存在でしたが、ついに定期運用が消滅し、残るはJR東日本の700番台5両のみになったわけです。
趣味的な見地からいけば、この機関車は初期の交流機にありがちな、複雑な屋上機器というのが魅力なわけで、700番台はあっさりし過ぎて別形式のようにも見えます。最後まで貨物に残った75らしい形態のものは、M形4両、P形3両の計7両だったようです。一族の最終製造機である1039は、昨年の東日本大震災で、津波を受けて現地で解体されたのは記憶に新しいところです。
管理人がED75と本格的に出会ったのは、中学生のころ、福島の叔父を訪ねた時のことでした。一人旅が許されたので、時刻表をめくって面白そうな列車がないか探して選んだのが、お昼前に上野を出る一ノ関行きの普通列車でした。列車番号も覚えやすい123でした。その頃は、黒磯までの直流区間はEF57と58の共通運用だったので、58が来ればハズレということになっていました。上野駅の13番線で待っていると、やがて尾久客車区から推進で列車が入ってきます。郵便の積み込みとかもあるので、発車の40分近くも前にです。
機関車次位に乗るつもりでその付近で待っていると、最後に勇ましいEF57が姿を現しました。しかも一番前の客車は、白熱灯のスハフ32です。初めての本格的な鈍行一人旅でしたが、大当たりのシチュエーションだったのは忘れられません。「青春18きっぷ」など当然なく、時はまさにブルトレやL特急ブーム、こんな列車に歓喜して旅行する中学生なんて異常だったんでしょうね。
黒磯まで約3時間の直流区間が終わると、停車中に交流ELに付け替えられます。黒磯駅は、全国で唯一の地上切り替え式で、架線の電気を直流と交流に切り替えることができるのです。駅構内を直流機と交流機が行きかうという、模型のような光景が展開されていました。
さて、問題は交流区間で何が引っ張るのか?でした。当時はED75の他、まだED71も健在でしたが、残念ながらED75でした。近代的な機関車と古い客車の組み合わせもアンバランスで、何か気に入らなかったのですが、いざ発車してみるとその考えは即座に覆されました。窓を開けて見ていると、京成電車の青電も真っ青なくらいの吊り掛けの音が響いてきます。普通列車ですから、その先も各駅毎に。これはハマりましたね。EF57とED75のリレーによる6時間半の旅は、あっという間に過ぎて行きました。
その後高校、大学と進むにつれて、全国を鈍行で旅行することになるわけですが、殊に北海道については必ず東北地方を通過するわけで、ED75の普通列車には、JR化後に客車列車が消滅するまで、とてもお世話になりました。管理人が一番お世話になった機関車ということができるでしょう。

そんなこともあって、脳卒中で入院した後、真っ先に75を製作(←かなり無謀のような気が・・・)したわけですが、今般5年近く走っているので、走行部分のリニューアルを行いました。実体験の中で出会った列車をいかに立体で再現するか?というのが模型のテーマの一つですね。もちろん走行の品質というのもあります。
今回のテーマの走行品質の向上については、その後の麻痺側の手の機能回復を反映して、今度こそは文句なしのレベルになりました。

盛岡から先でよく見かけた、奥中山越えの補機回送を兼ねた重連の普通列車のイメージです。最後尾の郵便車と荷物車は、青函連絡船に積み込まれて北海道へ行くのかな、といったところでしょうか。
75の事実上の終焉に際して、ほぼ完璧な走りを得ることができました。
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